受験勉強の意味

2016年04月08日

先日卒業した生徒からメールが届きました。

高校の入学前の課題に読書感想文があり、彼女は課題図書のなかのある文学作品を選んだそうです。

精読する際、受験問題を解くときに培った方法を使って、人物の発言、文章の流れ、使われることばに注意し、それら物語の表層だけではなく、ストーリーの背後に隠れたテーマまで推し量って読んでいったそうです。

すると、たいへん面白く読め、考えた作品の分析は巻末の解説と同じだったそうです。

あまりに嬉しくなって僕にメールしてきたようです。

そこからは、文学のおもしろさに初めて触れ得た感動が本当によく伝わってきました。こういうとき、人は自分の興奮を誰かに伝えずにはいられなくなります。こういうメールを読むと、思わずこちらもうれしくなります。

文中、受験勉強が文学作品の面白さを理解するためにとても役に立ったと書いてありました。

「子供が本を読まなくなった」といわれて本当に久しいですが、特に文学作品を「わかる」ためには小説のリテラシーを訓練によって身につけなければなりません。日常的な読書習慣がなくなった今、自然とリテラシーが身につくような子供は少なくなるのは当たり前です。

国語の受験勉強が文学のリテラシーを身につける役に立ったのだとしたら、教えているものとしてはとても誇らしい気持ちになります。

しかし、考えてみれば受験勉強に限らず、すべての勉強はこういうことで役立たなければならないものであるはずです。

そういえば作家の豊田有恒が昔、小説を書く上で最も役に立った経験は?という問いに対してただ一言、「受験勉強。」と答えていたのを読んだ覚えがあります。今になって意味がわかった気がします。

ちなみに、件の生徒が読んだ作品はゴールディングの「蝿の王」。名作ですよ。

なかなかやるなあ。