民泊羨ましい

2016年05月13日

昨日は安堵中学の沖縄での修学旅行が終り、中間対策授業に全員出席しました。

授業終了後のある男子生徒たちとの会話

―民泊どうやったん?―

ほんまよかったわ。俺らが泊まった家、なんとロシア人の一家やってん!

 

―まじか!沖縄でロシア人の家!?なんかわからんけどスゲーな。食事は沖縄料理?―

いやいや、ロシア料理やって!これ見てや。(スマホで写真を見せる)

 

―おお!これ、でっかい肉の塊が串にさしてある!これもロシア料理?ロシアでも西の地方なんかな?―

そんなん知らん。そんでそこの家の娘が俺らより1コ上だけの子やってん。このロシアンガールが美人でな!お母さんも若い頃はきっと美人さんだったんやろうなと思える云々・・・

 

―ギャハハハハ!ヒー腹痛い!ロ、ロシアンガールって!いいねえ、だいぶ不純な目線が感じられて!―

(退出する際に)

もう、オレ修学旅行から帰ってきてからなんか家帰るのがいややっちゅうか・・・なんで俺の家はあの家みたいでないねんって思ってまうねん。

―当たり前やろ!お客さん扱いされたんやし、だいたい家帰ったらロシア人やったらびっくりするわ!!―

 

この経験、彼にとっては留学に近い貴重なものだったと言えます。

たとえ一泊でも、外国文化に直に接する機会を10代前半に持てたことがいかに貴重であるかは、彼の興奮ぶりからもわかります。彼は自分の日常生活の中に、全く違う日常が存在しうると身をもって実感できた。きっと彼の精神は「厚み」を増したことでしょう。

民泊出来た上に外国文化にも触れられた。大人になってしまってからでは望むべくもない経験。なんとも羨ましいかぎりです。

 

もう一つ素晴らしかったのは、その日の暗記テスト類を安堵の生徒全員がちゃんと合格したことです。

日常とは違う強烈な経験をしてもそれに心が魅せられたままではなく、自分が立つベースとなるリアルな日常は外さない。

マジメとかそういう言葉とはちょっと違います。

他の生活に憧れを感じたり、自分の生活に幻滅を感じたりすることはあっても、自分の生きるべき「リアル」から逃げない。

いややなあ、と思っていても、しゃあないわ、と決心して選択する。これには成熟した精神が必要です。

 

修学旅行、民泊を通して確実に彼らは成長しています。