授業で言わなかったこと国語2(多様性)

2014年04月06日

この雨で桜も散ってしまいそうです。今年はあのうっとりする気分には浸れないかもしれません。

ところで桜前線などのことばで表される桜は、数ある桜の品種のなかでも「ソメイヨシノ」といわれるものです。

この「ソメイヨシノ」、江戸時代の江戸は染井村で、二品種の掛け合わせからうまれた人工的な改良種です。病害虫に強く、花が散るまでは若葉がでないという性質からとても美しく、瞬く間に人気になって全国に広がりました。この桜には受粉能力がありません。サクランボできないでしょ。種子ができないので自然の状態では増えていけません。人間が挿し木で増やしていったわけです。

つまり、遺伝子で見る場合、全国のすべてのソメイヨシノは「同じ遺伝情報」と言えるわけです。分身、あるいはクローンみたいなものです。だからこそみな同じ条件で開花するため、日本中を桜前線が漸次北上するというおもしろいことが起きます。いってみればみ~んな同一人物。日本にソメイヨシノがいったい何本あるのか想像もつきませんが、ちょっとクラッとめまいがするような感じです。

ところが「生物種」としての面ではこのことは決して好ましいことではない。ちょっとした環境変化、病害虫の流行で全個体が一気に全滅してしまう恐れがあるからです。進化の可能性もなく、いつ全滅してしまうかもしれないソメイヨシノ。種としての多様性を一切もたない危うさは、ぱっと咲いてぱっと散る桜のイメージとぴったりマッチしているとも言えるのでしょうが。

今週の中三国語の授業で生命の捉え方に関する文章が出ましたが、その際「生物は個体のエントロピーが極大になる前に自分の情報を次世代に伝える、つまり子孫を残す。」という内容がありました。ここはみなさん納得してくれたのですが、「子孫を残す際にその個体が一生をかけて経験した情報は一切捨象されて、遺伝情報だけが受け継がれるんですよ。」という僕のつけたしに、「それはなぜ?」という顔をしていた生徒もいたので、このソメイヨシノの例を書きました。

もうわかると思いますが、もし自分の記憶が、あるいは「私」の意識そのものが次世代にそのまま受け継がれていくことになると、それは多様性が消滅してしまうことになってしまいます。「私」が永遠ではないこと、やがて消滅してしまうことは中学生のあなたには(僕にも!)残念なことに思われるでしょうが、各個体が多様性を確保していることは、種としての人間を考えたとき、とても健康的で可能性に満ちたことなのです。

でもね、人間は、この「種としての多様性」と「個体の経験の連続」という相反する要素を唯一両立している生物だとも言えるのですよ。どうやって?言語によって個体の経験を記録し残していくことによってですよ!有史以来星の数ほどの人間の経験の記録が本でのこされているじゃありませんか。あなたが学校で、塾で知る知識は「私」以外の誰かが受け継ぎ、あるいはひっくり返し、積み重ねてきた多様性の体系のほんの一部です。あなたもわたしも自分の「個体」としての時間のなかでは到底手に入れることができない情報の蓄積を簡単に知ることができ、自分の興味のある方向へ経験を深めていくことができる。ひとりひとりのその方向が、種としての人間の多様性を確保することにつながるのです。

そう考えると、勉強したり好きなことをしたりすることだけで、生物種としての人類に貢献していることになると言えませんかね。

授業で出た、あの文章の著者の「利他的行為」とは、深読みすればそういう意味なのかもしれません。まあこれはむちゃくちゃこじつけているのですけど。

こんなことを授業で付け足したかったんですよ。

え、何言うてるかわからん?じゃ、今日はここまで。