cheapな感動
世の中わかりにくいです。私たちの世の中も生活もどこへいくのかよくわからない。考えてもすっきりとわかる答えなど出ないことばかり。ただぼんやりとした不安が澱のように心の底に広がる。そんな面は大なり小なり誰にでもあることでしょう。
そんな中で時折、飛びつきたくなるわかりやすい物語が世の中にはあります。手放しですばらしい、感動する。
「聴力に困難を抱えるヒロシマ被爆二世の作曲家が魂を削るような苦悩のうちに創造した交響曲」という物語は、「わかりやすい物語」に飢えた私たちが群がる魅力をもっていたのでしょう。
それだけにゴーストライター問題でその物語が「偽物」とわかったとき、私達があの作曲家に非難を集中させたのは、信じていたものに裏切られ傷つけられた憤りのようなものなのでしょうか。
しかし音楽作品に対する感動は、誰が創ったのか・どういう境遇の人なのか・どれくらい苦悩して創ったのかといったこととは本来無関係なはずです。音楽の感動は音楽そのものの中にある。ところがこの感動、言葉に表そうとしても難しい。いくら言葉を尽くしても、自分の感動の本質はするりと言葉の手のひらの隙間から漏れ出ていってしまう。わかりやすい感動などありえない。そうでなければならない。
かの作曲家の曲に感動し涙さえ流したかもしれない人々は、だから今でもその曲を聴いたときには感動を覚えなければならない。もしそうでないなら、私達は、「数々の困難を抱えた作曲家が創った曲なのだから素晴らしいに違いない。」という物語に対して感動し、涙を流していたことになってしまいます。
だとすれば、なんと安っぽい感動なのでしょう。なんとcheapな涙なのでしょう。
あの作曲家の問題が起きたときに私たちが憤りを感じたのだとしたら、私たちは感動という重層的で本質的なものでさえ、わかりやすい物語を消費しているだけのcheapなものになっていしまっていることに気付かされそうになったからかもしれません。感動がcheapなのなら、きっと存在そのものがcheapなのだと思います。
糾弾されるべきはかの作曲家ではなく、私たちの生そのものなのではないでしょうか。
さて本日。
中二の女子生徒が何度も単語の再テストを受けても合格できませんでした。悔しいのと哀しいのと情けないのと、おそらくもっとたくさんの感情がかさなったのでしょう、涙をポロポロこぼしました。
残念ながら僕は「涙」をみても何とも思いません。私たちは○○河内の音楽聴いても向こう脛ぶつけても涙ぐらい出るモノだからです。
しかし彼女の無念、自信のなさ、辛い思い、そして前向きな気持ちは汲み取れます。だからいくらでも補習しますよ。次はできる、泣くな!
それに比べ、授業六回目にして遅刻するわ宿題は忘れるわテストも手を抜いて不合格になるわ、早くも安っぽさが露呈している中二N君、そんな軽い人間でやっていけるほどうちの塾はcheapじゃないよ。
そろそろシメるやつはシメるぞ。