終戦の日、あるいは稚拙なファシズム

2014年08月16日

昨日は終戦の日でした。長文です。長い文章が嫌いな人は読まないでください。

しかし69回目となる終戦の日はおそらく重大な転向の芽を含むものとなりました。

「過去の戦争での死者を弔い、不戦を誓う日」から「国家のために身を捧げた英霊(神)をたたえ、国威を発揚する日」へと。

そんなばかな、誇大妄想にも程があると思うでしょう?でも背後にある物語を入れ替えるにはちょっと表層の言葉を変えるだけで充分可能です。

例えば、「治安維持」を「特定機密保護」に言い換え。これで政府に都合の悪い言論は大幅に制限されていくでしょう。

例えば、「武器輸出」を「防衛装備移転」に言い換え。これで日本の兵器(部品)が中東で人を殺す懸念が現実になりました。

例えば、「日本の国外で戦争できること」を「積極的平和」、そして「集団的自衛」に言い換え。

私たちの漢字読解能力をバカにしていますね。なお、「積極的平和」に至っては、本来ガルトゥングという学者が定義した「単に戦争がない状態ではなく、貧困や病苦のない状態」を指す言葉で、完全にインチキな使い方です。しかしいかにも官僚が思いつきそうなこの言葉の表層的言い換えは、見事にその背後にある物語をぼかすことに成功?しています。

さて、こんな茶番はまだ瑣末?なこととも言えます。

現在、日本の憲法は機能停止の方向へ突き進んでいます。

日本国憲法9条では、どう解釈しても「集団的自衛権」を容認できません。これは論を待たないところです。

また極論を言って、という方もいるかもしれませんのでちょっと書きます。集団的自衛権の閣議決定前に自民党の高村副総裁が持ち出したのが「砂川判決」です。ここで強調しておきますが、政府が持ち出した、集団的自衛権が憲法9条に抵触しないと言える根拠は、この「砂川判決」しかありません。しかし、この判決はそもそも「駐留米軍は憲法9条2項に違反する」という高裁判決に対しての最高裁判決で、「日本に米軍がいて守ってもらっても憲法違反ではないよ」という意味で、どれだけ行間を読んでも「日本の領土、領海外で米軍が攻撃されたら日本が軍事力を行使して守ってあげても憲法違反じゃないよ。」とは絶対に解釈できません。砂川判決文はネットにいくらでも落ちていますので読んでみてください。中学生ぐらいの読解力があれば確実に読み取れる平易な文章です。これを集団的自衛権の根拠に持ち出したのだとしたら、正気を疑いますよ。本当に。

全く論理的に破綻しているからこそ、そこに「戦争ができる国」にするためのなりふり構わぬ執念を感じて空恐ろしくなります。

全くの憲法違反の閣議決定に基づいて、今後各種自衛隊法が改訂され、成立していきます。この時点で行政府の権力集中による立法府の権力分立の消滅と、事実上、日本国憲法は停止します。

司法があるじゃないか、裁判で違憲判決が出ればまだ止められる、というのは希望的観測に過ぎると思えます。なぜなら、今後政府は確実に最高裁判所裁判官の人事に暗に介入します。内閣法制局の局長人事、政府審議会委員人事、NHK会長人事に介入したように。判決文も今から想像できます。「本件は高度に政治的な問題を含んでいるため明言は避ける云々・・・。」

悲観的すぎると思われるかもしれませんが、司法の無力は今、すでに顕在化しています。密約文書は捨てちゃったからないと理由にもならない理由を述べていた外務省、財務省に対して、沖縄変換の日米政府の密約を記した公文書の開示を求めた裁判の最高裁判決が今年7月に出ました。結果上告は棄却。判決理由は「はっきりどこにどういう文書が確実に存在するという証拠がないから」です。これは事実上スパイして証拠をもってこいということです。当然、その行為は特定機密保護法に抵触します。そしてこの「機密」は実際には永久に開示されることがありません。そういう法律なんです。この判決を知った時も裁判官の正気を疑いました。裁判所は権力の暴走から国民を守ったりはしません。ちなみに密約の相手国のアメリカでは国立公文書記録管理局でこの「沖縄返還に関する密約文書」は誰でも閲覧できます。

こんなに書きましたが、これ、すべてこの1年間の出来事です。我ながら信じられません。

さてここからが本論なのですが、なぜ僕がここまで危機感を募らせているかというと、今の日本の状況が、先の大戦前のドイツを彷彿とさせるためです。世界恐慌の不況の中で不満階級を次々と取り込みながら勢力を拡大したヒトラー率いるナチスには、1933年に全権委任法が可決されました。これにより、事実上ワイマール憲法は機能を停止します。その後、立法も司法もこぞってナチ党の暴走を積極的に支持していきます。後は言うまでもないでしょう。ユダヤ人の大量虐殺、第二次世界大戦。この当時のドイツに台頭したものがファシズムです。

このときのナチスの手法と現在の日本の稚拙なもくろみが相似であるように思えるのは僕だけではないでしょう。なんたらミクスで一時的株高と円安を作り出して経済を回復しているように錯覚させ(これはもうすぐボロが出ます。GDP下がっていますし。日本経済の沈滞は高齢化や生産業の空洞化などが原因の構造的なもので、公共事業投資でごまかせるほど短期的な解決が可能なものではありません。物価の上昇に比して給料が上がらないことにそろそろ気付くでしょう。)、ありもしない中国の脅威を煽り立て(国際社会で成熟した主権国家に全面戦争を仕掛ければどうなるかぐらい中国もわかっています。危機があるとすれば尖閣諸島で軍事衝突を起こして領有権を主張することぐらいです。どこぞの国の総理大臣はしきりに国民の生命を守るとか言ってますが、尖閣諸島は無人島です。世界が危惧しているのは日本の右傾化によるアジア情勢の不安定化のほうです。)、また戦後の賠償責任をあいまいにしたままであるが故の韓国との関係悪化を国内の在日韓国人、朝鮮人へのヘイトスピーチの放置で憎しみを煽り(ヘイトスピーチは立派な差別主義、レイシズムです。あんなものは集会・結社の自由の問題ではありません。根深いアジア人蔑視感情に基づく人種弾圧です。だいたい在日韓国人・朝鮮人だけが他の外国人に比べて優遇されていると思うのなら国会前でデモするのが筋です。)、民主国家としての現在の異常な状況を正当化しようとしています。また、反戦・平和主義的言論に対する不可視の圧力といったものをひしひしと感じます。

憲法の実質的無効化、理性ではなく感情に訴えかける政治手法。憎悪、あるいは蔑視すべき対象の設定。言論の偏向。まさにナチスが行った手法とパラレルです。

ファシズムとはヒトラーとナチスによる独裁軍事政権が国民を強制し、弾圧した結果、国民が恐怖のうちに恭順したために成ったのではありません。むしろ国民が熱狂的に支持するという構造をもっています。自身の理性的思考や論理的判断を停止し、強い同一価値感・同一感情に身を任せることの快感がファシズムの本質です。先に述べた政治手法は、沸騰する高揚感に水を差すような冷静な思考を注意深く排除するための装置としての機能を果たすのみです。ファシズムへの参加は、国民自らが積極的にするものなのです。

遠くない将来、海外で軍事行動をする自衛隊が他国と戦闘し、隊員に犠牲者が出るでしょう。その時日本の世論は集団的自衛権を認めたことを後悔し、自衛隊法や特定秘密保護法を廃止するよう政府を糾弾するでしょうか。断言できますがNoです。死者が出たとたん、「国のために命を捧げた英雄」物語が大声で語られることは確実です。続けて「このように国際情勢は危険な状況なのです。日本国民の命と世界の平和のために散っていった自衛官のためにもさらなる積極的な平和維持行動を遂行しましょう。それが国際社会での日本の使命なのです。有事の際により迅速な対応をとれるよう、日本国憲法改憲の国民投票をいたしましょう。」

さて、このような状況でも私たちは甘ったるく魅力的な情緒に身を任せることなく、理性的な意見を持ち続けることができるでしょうか。「死んだ自衛隊員は戦争しにいっているんだから死ぬのは当たり前だ、むしろ二度と犠牲者をださないためにも集団的自衛権は今すぐ放棄すべきだ。」とはっきり言えるでしょうか。そのころにはすっかり形骸化してしまった平和憲法を前にして。僕は自信がありません。

だからこそ、

僕は情緒的な話はきらいです。情緒的な部分に訴えかける話し方をする人間を決して信用しません。自分の行動や努力を情緒的な物語に還元して語りたがる人間を軽蔑します。日頃からこのことを心に言い聞かせています。

僕は塾の講師で教師ではありません。だから授業で個人の政治的信条に関わることは言いません。

同時に僕は塾講師として、自分が教えた生徒が他国の人間を殺したり、他国の人間に殺されたりするところだけは見たくありません。

だからブログには自分の信条を書きます。

長くなりました。