現在完了

2014年04月09日

H:はい、授業するで~。宿題のプリント出して~

生徒:・・・プリント失くした・・・

H:はあ!?はよ言わんかい!ん~しゃあないなあ、今はこの予備のプリント持って・・・

生徒:・・・でも見つけて宿題やってきた。

H:???へ?ほんならプリント失くしたって言わんでいいやんけ!もう、紛らわしい!

さて、この架空の会話の中に、現在完了の核心があります。

このちぐはぐな会話の場合、Hは「プリントを失くした」という過去形の発言を「過去に失くしたのだから現在も持っていない」ものとして因果を認識しているのに対して、生徒は「過去にプリントをなくしたのは事実だが、現在持っているかどうかは言っていない」という認識をしていることから来るズレが生じています。

英語で「プリントを失くした」を“I lost my paper.”と過去形で表現した場合は、過去に失くしたという事実だけを述べるだけで、今現在プリントを見つけたのかなくしたままなのかには一切触れていません。

次に“I have lost my paper.”と現在完了で表現されるとき、「過去にプリントを失くしたということが原因で現在も持っていないという結果が生じています」という意味内容となります。つまり、現在完了は過去から現在までの時間的連続性の中の因果を一気に表現することができるわけです。

日本語には現在完了という言語表現はありません。ということは概念がないことと同じことなのです。つまり、日本語は過去形と現在完了の概念は区別されずに渾然一体となってやりとりされているわけです。現在完了を訳すときにうまくいかないのは概念そのものがないからなのです。

私たちは多言語をかんがえるとき、自国の言語と1対1の対応をしているとつい思いがちです。多言語を細大もらさず日本語で直訳できるという前提でとらえるということは、「あなたもわたしも同じ現実を同じように捉えているはずだ。」と勘違いすることになりはしないでしょうか。

私たちの現実の認識を、言語が根底的に規定しているという事実。なかなか実感としてピンと捉えられないところです。しかし想像力とロマンを刺激されるところでもあります。

先のズレた会話の話を例にとりながら話をすると、生徒たちは興味をもって聞いてくれたようです。なんとなく現在完了の面白いところを理解してくれたような気もします。

それは、「あなたとわたしは違う現実を生きているけれど、理解することは可能だ。」という希望があるということです。現在完了を理解することは世界中の人々と理解し合えるという可能性を人は持っているということなんですよ。大げさですか?でも僕は本気で考えています。