授業で言わなかったことー国語(記号論)

2014年04月30日

先日の授業で読んだ公立高校入試問題の文章(鷲田清一)は、「記号論」という分野に関係しています。一時期ほど出題されなくなりつつありますが、知っておくべき知識なので少し書きます。

記号論で面白いところは言葉を音声表象と概念に分けたところです。例えば「犬」という言葉を認識するときには、まず”inu”という音を聞くとそれが「犬の概念」、つまり四つ足で尻尾がある動物という概念とむすびつき、認識される。これが瞬時にしかも自明のこととして起こるわけです。

ここで重要なことは初めに「犬」という動物とその概念があり、それを表す”inu”という「名前」がつけられたのではなく、”inu”という「名前」を知ることで「犬の概念」が他の概念と区別されて認識されるようになる、ということなのです。ある種の転倒を伴う考え方なので難しいですね。では、私たちが初めて犬という動物を認識したときのことを考えてみましょう。

Aちゃんはようやくヨチヨチ歩きができるようになったぐらいの年齢でまだほとんど言葉を知りません。ある日母親と一緒に近所を散歩していました。すると向こうから茶色い毛で覆われた四つ足で歩く小さめの生き物がやってきました。それをさして母親は、「Aちゃん、ワンワンよ。」と言います。この時点でAちゃんの概念世界では、生き物はすべて「ワンワン」です。次の日、同じく散歩中、また茶色い毛で覆われた四つ足で歩く昨日とおなじくらいの大きさの生き物がやってきました。ところが今回、母親は「Aちゃん、ニャーニャーが来たわ。」と言うのです。何と!同じような色、形をした生き物なのに昨日はワンワン、今日はニャーニャー!・・・この後、Aちゃんは犬を見て「ニャーニャー!」、あるいは猫を指して「ワンワン!」と言う錯誤を繰り返し、それを訂正されることで「犬」という概念の範囲から「猫」という概念を「分けて」認識するようになるのです。

まだよくわからない?ではこう考えてみましょう。Aちゃんの母親はちょっと変わった人で、犬であろうが猫であろうが、どちらも「あれはワンワンよ!」と教えたとしましょう。どうなるでしょうか。そう、Aちゃんにとって、本来”wan-wan”、”nya-nya”という音で区別されることで分化するはずの二つの概念は、”wan-wan”という音に対応する一つの概念だけになってしまいます。すなわち、Aちゃんの認識世界の中に「猫」というものは存在しなくなってしまうのです。み~んな「犬」。まあ実際には母親以外のすべての人間によって訂正されることになるのですが。

このように考えると、私たちは存在が先に自明のものとしてあり、それに名前がついたと思い込んでいますが、実は「名前(音声)」を覚えることで初めて存在が生じる、あるいはその存在を他の存在と分けて認識できるようになるのだということが判明します。

このことから、「わかる(分かる)」ということは、言葉を覚えていくことでぼんやりとした概念世界がより細かく、より繊細に分節化されていくということなのだと言えるでしょう。文字通り、「分かる」ということは「分ける」ことと同じなのです。

これが記号論のほんとのほんとの初歩。中学生でもわかるでしょ。

先日中2の生徒の補習で英語を教えていたときのこと。「見た」と「見ていた」という日本語の違いが概念的に分かっていないようなふしが見受けられたので、「was, wereとing形」は何ていう名前の文法用語なの?」と聞いてみるとやはり答えられませんでした。そこで「過去進行形やで!過去形とはちがうやろ!?」とだけアドバイスしたところ、概念的に「~した」と「~していた」が概念的に正しく使い分けられるようになりました。まさに記号論!名前が概念を分節化するということの典型的ケースとなりました。英文法が苦手な方、まずはっきりとbe動詞、一般動詞、現在形、過去形、現在進行形、過去進行形といった用語を言えるようになりなさい。

はっきりと言葉を覚えるということが「分かる」ということの基本ですよ!