人権作文

2014年07月27日

先週は授業の他に夏休みの課題である人権作文を手伝いました。手伝うといってもこちらの言うとおりに書かせたりするわけでは一切ありません。内容を指導したりもしません。
「人権」の一般的な話をちょこっとして、生徒が選んだテーマにケチをつけるようなことはしません。ただ、詰まって書けなくなってしまったらそれまでの文脈に応じて一緒に考え、書けたら誤字・脱字のチェックをするだけです。

ところで、
この人権作文で生徒が選ぶテーマは、九割九分、「いじめ」問題です。これは当然とも言えるでしょう。中学生である自分たちに最も身近なテーマであるわけですから。実際にいじめにあったことがある生徒もいますし、友人から相談された生徒もいます。多くの生徒は、いじめを目撃したことがあることからも実感をもって書きやすいのだと思われます。それ自体には何の文句もありません。実際、いい内容の作文もありましたし。

ただ、少し物足りないことも事実です。「人権」に関係するテーマには「女性問題」、「外国人差別問題」、「部落差別問題」、「子供の虐待問題」、「高齢者の人権問題」、そして「国家による紛争・弾圧問題」などなど、いくらでもあるわけですが、これらに関する大まかな説明だけでは、関心を持ってもそれを文章にするだけの情報も思考訓練もしていないために、結局選べない。

本来、中学生の時期の興味の範囲は、家族・友人など「顔見知り」の集団を越えて「社会」や「世界」といった広がりを見せるものです。その意味で、保守であろうがリベラルであろうが、彼ら中学生に様々な情報とその解釈を提示し、対話を通して思考訓練を促すのは私達大人の責任だと思うのですが。
ただなんとなく、考えもなしに、気分で生きているのは私達大人なのかもしれないと思ってしまいます。

この人権作文のテーマに「集団的自衛権」の問題を選んだ生徒が一人だけいました。きっと彼の周りの大人はこういった問題をよく話題に出して考える方々なのでしょう。すばらしいことです。

それにしても、中学生は「人権」の概念をほとんど知らないことに毎年驚かされます。
その起源はロックあたりなのでしょうし、もっと遡ればキリスト教思想に根ざしているのでしょうが、少なくとも1948年の国連世界人権宣言で国際的・普遍的意味付けをされたのは確かでしょう。残念ながら「人権」が完全に実現された、あるいは尊重された社会は歴史上ありません。しかし個人が不当な迫害や弾圧を受けてはならないことの、最終的な根拠となる大事な概念であることは確かです。

夏休みに人権作文の宿題があったり、学年登校日に人権に関する映画を見たりするのももちろん結構なことだとは思いますが、日頃「人権」という概念自体をその起源から生徒とともに考えるような機会が学校であってもいいと思うのですが。

でないといつの間にか自分たちの「人権」を自分たちでどんどん捨てていくような社会になってしまうような気がするのですが。
いや、もうすでになっているか。
先日、国連人権委員会から、日本に対して「従軍慰安婦問題」、「特定秘密保護法」、「在日韓国、朝鮮人に対するヘイトスピーチ」に関して勧告がありました。
いろいろな意見があるのでしょうが、少なくとも国際社会は日本の「人権意識」に危惧と失望を抱いていることは事実です。
日本人として、本当に情けなく思います。ここまで私たちは自分の人権にも他者の人権にも鈍感になってしまっていたのか。

愚痴になってしまいました。

今週は読書感想文を手伝います。ちょっと楽しみです。
これももうちょっと読むに足るような作品を、もっと教師や大人が・・・、いやここらでやめときましょう。