潜在と鈍感

2013年04月25日

塾のブログであるということから触れないようにしている話題もあります。
いろいろありますが、一番は政治的問題に触れた話題です。

塾のブログという一定程度公式な場で、個人的な思想、信条を表明することは筋が通らないことだからです。
そんなことは個人のブログかツイッターででもつぶやいとけ、という話です。

当然、塾の授業で個人的信条をさも一般論であるかのようなフリをして授業するようなまねは断じてしていません。
塾講師としての「私」と個人としての「私」は決して混同されてはなりません。実際私たちは例外なく、会社での「私」、家庭での夫や妻としての「私」、友人と会っているときの「私」などさまざまな「私」を使い分けています。

それは中学生だって同じことです。家庭での息子、娘としての「私」、学校の教室での「私」、クラブの先輩としての「私」、そして塾で勉強しているときの「私」・・・。全部微妙に、あるいは大幅に違っているはずです。同時にそれぞれの「私」はどれだけ違っているように見えても、全くの別人ではなく、潜在的に連関を保っています。あたりまえです。

きっと、私とはさまざまな場で立ち表れる「私」の総体を指すとも言えるのでしょう。

その意味では、このブログであだち塾講師としての「私」が書き記すことは、堀居という人間の総体と無縁なものではあり得ません。同時にあだち塾そのものの意見とも限りません。

だから最近どうしても看過できないことを今回は書きます。

前置き、というか言い訳が長くなりましたが、それは最近の社会の潜在的右傾化についてです。

政府は4月28日を「日本が主権を回復した日」として記念日にしようとしています。(「主権回復に向かった日」とかなんとかと言い換えているようですが同じことです)

サンフランシスコ講和条約で1952年4月28日に日本は敗戦国としてアメリカに統治されていた時代から、独立国として主権を回復したとしています。しかし、この時点では奄美群島も小笠原諸島も、そして沖縄も返還はされていません。

沖縄が日本に返還されたのは、実に1972年5月15日のことです。それまで沖縄の人々が苦しい年月をおくってきたことは想像に難くありません。
そして今も。

今回の4月28日を日本の主権回復記念日とする件は、沖縄の人々を無視した傲慢で無神経なものです。沖縄のことなどたいしたことではないのでしょう。

ではなぜ、今こんな杜撰な提案をするのでしょう。

日本は独立しているんだよ!だからそれまでに押し付けられた憲法は変えなきゃだめなんだよ、そんでアメリカといっしょに戦争できる国に変わらなきゃ他国からなめられ続けるんだよ。

僕にはどうしても潜在的な流れを作ろうとするメッセージが含まれているように思えてなりません。

改憲や集団的自衛権の可否に関して意見を強硬に主張するつもりは決してありませんし、どのような意見を持ってもかまわないことが民主主義の基本だと承知もしています。

しかし、ただなんとなく潜在的な流れに身をまかせ、「今」に鈍感であり続けた果てにいつのまにか戦争(戦闘でも同じことです)していました、いっぱい人が死にました、などというバカなことになるのだけは絶対にゴメンです。

なぜなら、今の私たち大人の「鈍感」のツケを払わせられるのは、必ず先の世代の人間だからです。今中学生である塾生たちが大人になったときに、「なんで戦争なんてできるようにしたんよ。」と言われたとしたら、僕なら死にたくなります。

そのときに「国益のために戦争して死ぬのはしようがないことだ。」と堂々と言える人だけが今鈍感でいてかまわないのでしょう。あるいは「いやあ、僕らもこんなことになるとは思わなかったんだよ、いつのまにか、ねえ。きっと歴史とはそういうものなんだねえ。」か。

「私」、堀居は「潜在的な流れに鈍感なことこそが最低の悪だ」と考えています。

だからいつも考えていようと思います。