勉強と目的

2013年04月19日

これまでさまざまな生徒から毎年必ず耳にしてきた言葉があります。

それは「なんで勉強せなあかんの?」です。これに必ず、「うち外国なんか行かへんし、英語なんていらんもん。」(おお、新婚旅行は国内か!熱海?昭和やね~。ジミ婚は経済的やしね。)とか、「こんな難しい数学やる意味あらへん。関数なんか使わんやん。」(いやあ、将来メタボ対策に体脂肪率記録グラフつけるときに必要になると思うけど・・・。)とかが続きます。当然(  )内の心のつぶやきは声に出しません。説得力0ですから。

今回はこのことに僕なりに答えてみましょうか。

「なぜ勉強しなければならないのか。」あまりにもポピュラーな疑問にはさまざまなエライ人が答えてきました。だいたい「人生を豊かに豊かにするため。」とか「自分独自の価値観をつくるため。」とか「生きる力をつけるため。」とか。こういう精神的なタイプの答えってなんか権威的で説教くさいですよね。

実際、中学しか出ていないけれど陶芸一筋50年という職人さんや、学歴はないけど芸能界で活躍する役者の一言のほうが、高学歴だけれどうそつきで人間性が感じられない政治家の一言よりよほど人の心を揺さぶるということはありますよね。

そう、勉強って学校でするものと、生きていくうえで身についたりわかったりしたこととがあって、両者は別のものだと思われがちだけれど本来同じものなんですよ。ただ、学んだ情報が自分の人格と結びついているかいないかの差なんです。先の陶芸家の一言が重いのは、陶芸をするうえで習得した情報が、自分や世界(世の中)を考える上でとても重要な手段となっているからなんです。その意味では学校で習う情報もそれを知ることで「ああ、世界ってこういうものなんだ。」とか「私は社会のなかでこういう存在なんだ。」とかを考える材料になるならば、立派に「人格と結びついた知識」となり得ると思うんです。

だからある情報が「人格と結びついた知識」となるためには、その根底に「考え続けるという意思」が必要になります。これは断言できますが、老若男女にかかわらず、何も考えないで生きている人間はこの世に一人もいません。脳がある限り必ず何か考えています。その際、より深く考えるためには、よりたくさんの情報があったほうがいいに決まっています。酔っ払うたびに「じんせいってやつわなあ・・・」と同じことしか言えない大人はつまらないですよね。

そして、考え続けていくうちにひょっとしたら「世界の真理」や「自分の生きる意味」なんかがわかるときが来るかもしれない。これ、僕は本気で信じています。サボるときや逃げるときも多々ありますが、生きている限り考えたい。考えるためには新しい情報を手に入れ続けたいと思っています。もう毎日何も変わらない、あとは老いて死を待つだけ、みたいな老人になるのはまっぴらごめんです。

そう、「何で勉強なんてせなあかんの?」に対する答えは、

世界の真理にたどり着くためや!

・・・・・・あら、どんビキしてますね。爆笑も聞こえて来るようです。

 

でも本気なんですよ。「あだち塾」で僕が伝える情報がひょっとして生徒それぞれの「真理にたどりつく過程」にちょっとした影響を与えられたら本当に幸せでしょう。がんばって勉強します。

ちょっと大風呂敷広げすぎましたかね。

堀居