コーチングと人格

2013年04月06日

最近頻繁に耳にする言葉に「コーチング」があります。

曰く「コーチング研修を修了していますので指導には自信があります!」とか
「コーチングをマスターした指導のプロが自主的なやる気を育てます!」とか。
なあんかうさんくさいなあ。と思ってしまいます。

もともとスポーツ選手育成のための指導手段としてアメリカを中心に広がったコーチング。
選手にやさしすぎず難しすぎずの課題を与え、問題点を指導者との対話の中で選手自ら発見できるようにして、自主性を育てる。実際大きな成長をとげる選手も多いと聞きます。そこから広く学校や会社組織などで生徒や人材を育てることにもコーチングの技術が使われるようになったみたいです。それでうまいこといっているなら結構なことです。
別にいちゃもんつけているわけではありません。

でもねえ。集団の中の個人全員に画一的な達成目標を強制することに対するアンチテーゼとして登場したコーチング。
これは本来指導の技術としての体系であり、指導者の人格が優れているかどうかとは何の関係もないんですよね。実際、指導者と性格的な相性が合わないと全くコーチングの成果が上がらなかったりするそうです。その場合、指導される側はすぐに指導者を別の人に代えるそうです。技術と性格的相性とは全く別。アメリカらしいドライな考え方ですね。

「コーチングをマスターした指導者が教えます。」は、だから「立派な指導者が教えます。」といった内容に間違って受け取られかねない危うさがあるように思うのですが。言う側がその危うさをわかっていてあえて使っているような気がしてうさんくさいんですよね。

「じゃあお前は人格的に立派なのか!!」と言われると一言もございません。人様に誇れるような性格では全くありません。むしろ結構偏屈で偏った人格です。

だから一生懸命教えて自分も生徒からいろいろなことを学んでいこうと思っています。本心から。
願わくば上の言葉がうさんくさく響きませんように。

堀居